コンクールにおける淀川混声合唱団(よどこん)の演奏について思うところをこの前書きました。
きょうはそれについて、全然違う方向性のことを書いてみたいと思います。不遜なことを書くように思いますが、ご容赦ください。
合唱コンクールが終わって、TwitterやらFBやらで悲喜こもごもの様子をいろいろと見ていました。よどこんに限らずいろいろな合唱団の方を含めて。ふと思ったのは、みんな酒と食べ物のことしか書いていないなということです。あとは、練習不足の反省であったり、体調管理の反省であったり、つぎはコンクールでどうしたいということだけ。
コンクールの結果はよどこんに限って言えば銀賞で、それは金賞を目指す余地があるということで、つぎにつなげる発言も理解できますし、開放感からの酒食事もわかります。金賞を取った団体でも、やはり同じだし、気を引き締めるとか、さらなる高みとかいうのもわかります。
でも、俯瞰してみると、結局みんなコンクールという狭くて小さいものしか見ていないんだなーということが多かったです。そうでない合唱団の人はどうだったかと見比べてみると、「音楽を通じて何かをしたい」「芸術のひとつとしての音楽」「文化を担うものとして次の活動は」という観点で大きく違ったように思います。
意識が高いとか低いとかとは違って(意識高いと思われている人は自意識が高いだけだと思いますし)、先に何を見据えるかとか、自分達が及ぼす影響とか、そういうことに意識を振り向ける責任があるだろうと思うのです、すくなくとも予選を勝ち抜いて全国大会に出場したような合唱団は。特に社会人の合唱団はそうです。
みんなで声を合わせて、一生懸命長時間練習して、熱く声を挙げるなんてことは学生合唱団のみに許されたことで、社会人が時間とお金をかけてやることじゃないと思います。そういうのはスポ根です。歳を重ねた人間だからできる、歳を重ねないとできない音楽の追究をやって欲しいと思うのです。それはコンクールなんて舞台では狭すぎるのですが。
もし、銀賞をとって、つぎは金賞をと思うなら、金賞を取ることに目的していては無理だと思います。今までの延長線上に過ぎないから。不連続な変化を起こさない限り、上のステップには上がれない。もし、最高位の金賞を取ってしまったなら、それを維持することを目的にするのではなく、そのエネルギーを別のことに使って欲しい。
酒と食事の時間を、音楽を高める、勉強する時間に振り向けてほしい。それを見せる必要はないけれど。つぎは頑張るというなら、具体的に行動に移して欲しい。それは他のコンクール出場団体の演奏を聞いて自分の至らなさを反省するとかではないです。もっと違うことです。
合唱をやっている人は概して「狭い」ように見受けられます。それは一生懸命やっている人ほどそうです。視野狭窄に近い。音楽は広い。その音楽を内包する芸術はもっと広いはずなんです。そういう他の世界をもっと見て知って、触れることが合唱へ収斂していくのだと私は思っています。
平凡な言葉を羅列すると、見たことのない景色を見、見たことのない街を散策し、読んだことのない本を読み、聞いたことのない音楽を聞き、見たことのない映画を見る。知らない作家の絵を見て、知らない写真家の切り取った風景を感じる。会ったことのない人に会い、話したことの無いことを話す。興味のなかったことに手を染め、やったことのない仕事にチャレンジする。
そういうことが音楽を深めると思うし、合唱文化全体を底上げすると思うのです。合唱やってる人は合唱の話しかしない、なんて思われるのはしゃくに思いませんか?
もし、コンクールに出続けるのであれば、聞いている人全員の人生を多かれ少なかれ変えてしまうくらいの何かを残す、それくらいの気概と実力を持ってやって欲しい。音楽とは、芸術とはそういう力があるはずなのだから。
追記
みんながみんな、自分の本心ややっていることのすべてを公開しているのではないことは理解したつもりで、あえて書いてみました。自戒を込めて。不快に思われたり、水を差された形になった方はごめんなさい。