ここしばらく、通勤のときに合唱団の友人に薦められた「カルチェ・ラタン」(佐藤賢一著)を読んでいました。もとはわたしが高校生の頃、ウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」を読むのに挫折した話をしていて「薔薇の名前」の話になり、そのあらすじをWikipediaで読んだ友人が面白そうなんで探してみます、話的にはこの本と雰囲気や時代背景が似ていますねと教えてくれたのが「カルチェ・ラタン」だったのです。そして、わたしも同様にあらすじを読んで、興味を覚えてKindle版を買うにいたりました。
カルチェ・ラタンというとパリの有名な学生街ですが、この小説の舞台となるカルチェ・ラタンは16世紀のカルチェ・ラタンで、学生街ではあるのですが、当時の学生というのはほぼパリ大学神学部の学僧が闊歩する街だったそうで(学寮が複数ある)、お話もそこに住む美貌の秀才学僧にして女たらしのマギステル・ミシェルと、パリ夜警隊長にして「泣き虫」のドニ・クルパンの物語です。パリで起こった殺人事件や失踪事件を追うドニ・クルパンと、それを推理で助けるマギステルという、一見するとシャーロック・ホームズ的なコンビ推理小説に思えるのですが、そうではありません。これは当時のパリの世相の中にキリスト教、とりわけカトリックにおける「信仰とは何か」を織り込んだ歴史絵巻活劇なのです。著者の佐藤賢一さんは「傭兵ピエール」などのフランス歴史小説で有名な方ですが、わたしは完全に未読でした。友人が言うには「山Dさんならお好きな感じの小説だと思いますよ」とのことだったのですが、まさにその通りで読みはじめてすぐに、その軽妙な語り口と生き生きとした世相描写、そしてその魅力的な人物造形にのめりこんでしまいました(個人的には井上ひさしの小説を思い起こしました)。
劇中のカルチェ・ラタンは、まさにあの宗教改革の波が押し寄せた年で、ドイツでルターが、パリで(その後ジュネーブ)はカルヴァンが、既存のキリスト教であるカトリックの腐敗に対して、異を唱えて大きなうねりを生み出した時代です。劇中にはマギステルの友人としてカルヴァンも登場しますし、そればかりかあのイエズス会から派遣されて日本にやってきたザビエルも、イエズス会創始者のロヨラも主要な役で登場します。神学校の落第生で、今は親のコネで夜警隊長となったドニ・クルパンが、かつての家庭教師マギステルに教えをこい、かわかわれ、怒り、わめき、そして泣きながら、それらの人たちと交流し、人間的にも男性的にも成長し、女性との愛にいきつくという世俗的な物語(ドニは童貞で、女性に興味津々であるものの、恋愛の達人であるミシェルにいつもからかわれ、女性に対する「教え」も習う)がいわばパリの右岸の物語。それに対するパリの左岸、カルチェ・ラタンでプロテスタントの唱えるキリスト教に対して、カトリック陣営がどのように考え行動したのか、そして神学者としての立ち位置をマギステル・ミシェルが考え、見据え、「エッセ・エスト・デウス(神は存在なりや)」に答えを出して行動するという神学的な物語が同時進行していきます。そしてクライマックスでそれらがぴたりと重なるところが絶妙で、構成の素晴らしさに膝を打ちました。
この神学的な意味を求める部分は、ヨーロッパの歴史だけでなく、ある程度キリスト教の歴史、プロテスタントとは何か、カトリックとは何かについて知っておかないといまいちピンとこないかもしれません。なぜカトリックが腐敗し、プロテスタントが起こったのか?世界史ではそのように習うと思いますし、実際プロテスタント主義教育の学校出身であるわたしも、カトリックは古臭く腐敗しており、プロテスタントは新しく清新であるという単純な理解の仕方をしていたように思います。しかし、現実としてはプロテスタントが起こっても古い側のカトリックは滅んではいません。今も世界に多くの信者を持ち、厳然たる主要宗教として存在している。それはつまり、カトリックは一度(とはいえないけれど)腐敗したかもしれないが、ひとびとの信仰は残ったし、腐敗から立ち上がったということに他なりません。イエズス会の面々を始め、カトリック内部に残ってプロテスタントと違う道を選択してそれを成功させた人々がいたわけです。
では、その信仰とは何か。神とは何か。普通のひとはそこまで突き詰めませんが、神学を信奉するマギステル・ミシェルはそれを問わずにはいられない。その部分がマギステルの奔放な生活(性的にも)と表裏一体になって描かれています。むろん、その部分は難解なのですが、わたしたちのように神学者でない者にもその苦悩がわかるように、一般的なキリスト教信者であり、たぶんに世俗的なドニ・クルパンを通じて描かれているのがこの小説の真骨頂であると思いました。
キリスト教主義を習い、勉強したことがあるといっても、わたしはプロテスタントの教育を受けており、カトリック世界のことは知らないに等しく、劇中で語られるプロテスタントに対するカトリックの態度というのは正しく理解できていなかったし、目から鱗なことが多かったと思います(小説ではありますが、ある程度の歴史的事実は踏まえていると思われます)。そして、何より「信仰」とは何かについて真剣に考えたことはなかったなと密かに恥じました。そういうわたしは現在でもキリスト教信者ではないですし、かといって実家の宗教である仏教にも帰依していない無宗教に近い存在です。それは今後もたぶん変わらないでしょう。しかし、神を信じるとは何か、それを言う人間とはどういうものかを考えることはやはり大事で必要なことなのではないかと、本書を読んで気付かされました。だって世界の多くの人は今も各々の宗教を信仰し、生活しているわけで、そのひとたちと無関係に暮らしてはいけない世の中だから。啓蒙書とかではなく、歴史娯楽小説といっていい小説なので、その宗教的な部分はすっとばして読むことは可能ですし、十分面白いのでちょっと宗教は敬遠したいというひとにもおすすめしたいです。世俗と宗教が無関係ではない、それは16世紀には今以上に重要だったということだけは、伝わってくると思います。そうそう、ビクトルユゴーの「ノートルダム・ド・パリ」がお好きな人は、まさにどんぴしゃです。カジモドも重要な役割で登場しますよ。
なお本書は「序文」、「回想録本編」、佐藤賢一氏による「解説」という構成になっていますが、このすべてが「偽書」というスタイルをとっていますので、「騙されて」みてください。わたしは序文は疑ってかかったものの「解説」で騙されました。←読むとわかります!
【蛇足】
カトリックが主役の小説ですが、対抗する勢力として生まれたプロテストタントがその後どうなったのかをご存知の方は多いと思います。イギリスに伝播し、清教徒(ピューリタン)たちが迫害を逃れてアメリカに渡ったという歴史を学校で習われたでしょう。しかし、そのピューリタンを祖とする「アメリカのプロテスタント」がその後どうなったか?を知っている人は少ないと思います。唐突に思えるかもしれませんが、世界をひっかきまわしているように見えるトランプ大統領の誕生は、まさにプロテスタントの歴史的必然(?)と言ってもおかしくないのです。このことに関して最適な参考書が新潮選書「反知性主義 -アメリカが生んだ熱病の正体」(森本あんり著)です。以前のブログ(サーバーとともに崩壊)に感想を書いていたのですが、その文章を発掘したので、掲載しておきます。
新潮選書「反知性主義 -アメリカが生んだ熱病の正体」(森本あんり著)
すこし前に四条烏丸地下のくまざわ書店で見つけて買った本ですが、昼休みに少しずつ読んでいます。反知性主義というと、およそ知性的なことに反対することであり、学力低下の話、排外主義的な問題の文脈において登場する言葉という印象ですが、この言葉が登場したもともとのアメリカでは、そういう意味あいも含んではいるものの、かならずしもネガティブだけの言葉ではないということが前書きにあります。それはアメリカでローカライズされたピューリタンに発するキリスト教の歴史と深く関係しており、その言葉の真の意味するところを知るにはその歴史を読み解く必要があるようです。
ネガティブではない一例として、奴隷解放運動や、公民権運動を推進した原動力となったのは「反知性主義」であったということです。ここでいう知性というのは、ニューイングランドに入植した当時のアメリカのピューリタニズムに求められた厳格な知性主義と読み取れます。それに対する反動がリバイバル(信仰復興運動)であり、その動きが加速していったのが反知性主義です。
まだ読んでいる途中ですが、アメリカのキリスト教の歴史をひもとくとは、アメリカの歴史をそのままひもとくということであることに気づきました。逆の言い方をすれば、アメリカの歴史を知るうえでアメリカのキリスト教を知らないでは真に理解することは難しいということです。アメリカの契約主義的な考え方、政治のあり方、すべてがピューリタンがメイフラワー号に乗ってやってきたという一点に集約されるという点が非常に面白いというか、その「単純」で「軽薄」なところに驚きと恐怖すら感じます。
本のあらすじには「なぜビジネスマンが自己啓発に熱心なのか」「なぜ政治が極端な道徳主義に走るのか」という謎かけが書いてあり、そこまではまだ読み進めていないのでこの先が楽しみです。個人的に以前から海外ドラマ「ザ・ホワイトハウス」(原題:The West Wing)を好んで繰り返し見ているのですが、この本を読み終えてから見返すと、一層面白く見れるのではないかと思っています。
非常に読みやすいのでお薦めです。
上記の本を踏まえた内容で、概論を理解するにはこちらの方が早いかも。
シリーズ・企業トップが学ぶリベラルアーツ 宗教国家アメリカのふしぎな論理 (NHK出版新書)
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